防災無線スピーカー

 東日本大震災(3.11)では、巨大津波によって多くの人命が失われてしまった。三陸沖にある海底のプレートが北から南へ連続的に跳ね上がり、横滑りすることで隆起したため、想像を越えるような大きな津波を引き起こしたことが分かっている。この三陸海岸沿いでは、江戸(1611年:慶長三陸津波)、明治(1896年:明治三陸津波)、昭和(1933年:昭和三陸津波、及び1960年チリ地震津波)の各時代に、大津波の被害が何度も起きていて、ここに住む住民の津波に関する知識や意識は、高かったはずであった。しかしながら、この震災による悲劇は、死者・不明者:約1万8000人の死因のほとんどが、津波に巻き込まれた事によるものであった。

海底(プレート境界)を震源として揺れが長い時間継続する、津波が起こる可能性が高い。地震発生後、震源地とマグニチュードの推定により、気象庁から約3分以内に津波に関する情報が出される(瞬時に予想津波の計算を行っている)。いち早く警報を出すことで、沿岸地域の人々に避難を促すための一次情報である。3.11の場合、宮城県6m、岩手県・福島県3mの予想される津波の高さで警報されたが、まだプレート破壊による地震の揺れが継続していた。すなわち、実際のマグニチュードは更に大きかった(7.9から9.0へ約45倍も大きなエネルギーだった)ため、誰もが予想しない巨大津波が到達することになった。ただし、津波警報が発令されてから、約30分前後の避難可能時間が犠牲になったほとんどの方々にあったはずである。”部屋の片付けをしていた”、”自宅を見に行った”、”家族を探しに行った”、”荷物を取りに帰った”など、理由は様々であろう。そして、「まさか、ここまでは津波が来ないであろう。」という安心へ繋がる自己安堵の囁きだろう。

過去の津波体験から学び、三陸沿岸には同程度の津波が襲ってきても、それを越えることのない高さの立派な防潮堤、防波堤が備えられてあった。「防潮堤、防波堤があるから大丈夫だ。」と云う考えへ導いていく。これは、大きな揺れの恐怖の後、一刻も早く安堵したいという人としての自然な感情の流れである。
しかし、津波の波は、我々が知っている海水浴などで打ち寄せる波とは全く異なるエネルギーを持っている。たとえ50㎝でも津波の波を被ったら立っていることは不可能であり、それから逃げることは更に困難であろう。津波と一緒に瓦礫も押し寄せてくる、津波による溺死者の中には、瓦礫の衝突による圧迫・損傷を受けた結果とされているものが多いと云われている。

まず、大きな地震の揺れを感じたら、すぐに海岸から離れて、なるべく高い場所への避難を開始したい。坂道を登り、高台を目指すことだ。高台のない海岸沿いの平地であれば、丈夫なビルの5階以上へ上がるべきだ。
3.11の場合、津波警報発令後(約3分後)の避難開始でも間に合ったが、自身で即避難開始の判断をすべきこともある。1993年の北海道南西沖地震では、地震発生後の2~3分で大津波が奥尻島に到達し、200人近くの津波による犠牲者を出した。恒美警報発令前であり、また夜10時過ぎということもあり、避難が遅れてしまったという時間的不幸も重なった例である。沿岸部に暮らす人達は、揺れたら避難開始の心構えが必要になるケースである。
したがって、後悔すること無いように、いち早く高いところを目指そう。

状況により臨機応変に、より安全側に避難行動をしている人達、すなわち避難の率先者に従って一緒に逃げよう。”釜石の奇跡”として有名になったが、指定避難所に留まることに不安を持った小中学生達が、率先してより高台に移動したことで、連れられるように大人達もそれに従うことで津波からの被害を逃れた。
大きな津波の襲来が予想されるときには、聞き手が予想の過小評価をしないように高さの数値を出さず、「非常に大きな津波が来ます。逃げて下さい。」と発令方法も云い改めている。常に想定外があり得る自然災害だからこそ、より早くの避難が重要であることだ。

津波は繰り返しやってくる、どんどん大きくなる可能性が高いのが特長である。河川沿って遡上することもあるので、河川敷からの避難も必要になってくる。
津波警報が解除されるまでは、戻るべきではないことを心に留めて欲しい。